【ざっくりわかる】モネの人生・作品の特徴

【ざっくりわかる】モネの人生・作品の特徴画家解説
Claude Monet 《Water Lilies》 1906, The Art Institute of Chicago

クロード・モネ(Claude Monet)

【国】フランス
【生】1840年
【没】1926年(86歳)

【分類】印象主義

作品の特徴

印象派の由来となった絵を描く

1874年、34歳のとき 

第1回印象派展が開催される。
(当時の名称は『画家、版画家、彫刻家等芸術家による‟共同出資会社”第1回展)

モネは《印象、日の出》を含む12点を出品。

印象派という名称は、批評家のルイ・ルロワが、この《印象、日の出》を揶揄した言葉が定着したものである。

モネの郷里ル・アーヴルの港を描いた作品だが、一見、未完成かのような筆触を残した表現が非難の的となった。

この頃はまだ一般に、「絵画はアトリエで入念に仕上げるもの」という考えが根強く残っており、モネの絵は、瞬間の「印象」を描きとめただけのスケッチのように見えたのだ。

「風景ではなく印象しか描いていない」

と酷評されたことが、印象派の名前の由来なんだね~

モネら印象派は戸外で制作に励み、自然の光を表現するため、できる限り鮮やかで明るい色を求めた。

  • 絵の具を混ぜると濁って暗くなるため、パレットで絵の具を混ぜずに、カンヴァスの上で色を併置して描いた(=筆触分割)
  • パレットから黒を追放した

連作

1890年代、モネは「連作」という手法を確立した。

同じ場所を、異なる時間、異なる天候のもとに描き分ける、というものである。

モネは時間とともに変化する光、光の当たり方によって変化するものの見え方を表現しようとした。

1889年49歳のとき、

同い年で彫刻家のロダンと二人展を開催。

西フランスのクルーズ渓谷をモチーフに、同じ構図を反復した8点を出品した。

これ以降、「積み藁」「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」「セーヌ河の朝」「ロンドン」「睡蓮」など、連作を展開していく。

睡蓮

モネといえば「睡蓮」

1890年50歳のとき

ジヴェルニーの家と土地を2万2000フラン(1フラン=約1,000円)で購入した。

そして四季折々の花咲く「花の庭」を、その3年後には、土地を買い足して「水の庭」を造り始める。

もともと睡蓮の自生していた池だったが、太鼓橋を架けて藤棚をのせ、橋のたもとには菖蒲やかきつばたを植え、池のほとりには柳や竹林を配し、絵のモデルとなるよう生まれ変わらせたのである。

「水の庭」と呼ばれるこの場所は、「睡蓮」の作品群の舞台となっていく。

「睡蓮」の作品群はおよそ300点にも及び、画家の生涯の全作品の七分の一を占める。

「睡蓮」の割合は年を追うごとに増し、1895年以降の制作数ではほぼ半数、第一次世界大戦後のほとんど全数が「睡蓮」である。

人生のポイント

ブーダンに戸外制作を教わる

17歳のときに画家ウジェーヌ・ブーダンと知り合い、夏に一緒に戸外制作を行う。

そこで初めての油彩画《ルエルの眺め》を描いた。

「私が画家になれたのは、ウジェーヌ・ブーダンのおかげです」と後年のモネは言っている。

モネが絵を描き始めた頃は、アトリエから戸外へ出て制作するグループが登場した時代であった。

モネに外光の魅力を教えたブーダンは「サン=シメオン」派のひとり。

彼は自然を目の前に制作することに強い信念を持ち、北フランスの海岸で戸外制作を続け、〈海景画〉という分野を確立させた。

コレクターとその家族との奇妙な同居生活

エルネスト・オシュデは第1回印象派展の前には早くも購入を始めた、初期の印象派のコレクターである。

《印象、日の出》を含む300点以上のコレクションを形成した。

しかし1877年に破産、経済的にオシュデに頼っていたモネも苦しい生活を余儀なくされた。

モネはその後、破産したオシュデ夫妻と6人の子どもと同居を始める。

(モネ夫妻と2人の子どもを合わせて12人の生活!)

モネの妻カミーユが1879年に死去、エルネスト・オシュデが1891年に亡くなると、なんとモネは52歳でオシュデの妻アリスと再婚。

さらに、一緒に同居生活を送ったモネの長男ジャンと、オシュデの次女ブランシュも後に結婚している。

国家に睡蓮の「大装飾画」を寄贈

第一次世界大戦の休戦協定が結ばれた翌日の1918年11月12日

モネは友人でありフランスの首相であったクレマンソーに宛てて、戦勝を記念して国家に装飾的なパネルを寄贈したいと書き送っている。

当初はロダンの美術館の中庭に専用の建物を新築し、「大装飾画」を展示する予定だったが、戦後の財政難から新築の工事費がまかなえず計画は変更。

既存建築のオランジュリーを改造することとなった。

オランジュリーは当時ガラス張りの屋根から自然光がさす温室で、終生、自然の光をカンヴァスに描き続けたモネは、その特色ゆえにこの建物を選んだのであった。

晩年のモネは「大装飾画」の制作にすべての精力を注いだ。

当時は大きな苦痛と困難を伴うものであった白内障の手術を受ける決心をしたのも、この大作を完成させるためだったという。

死の直前まで作品に筆を加え続けたモネ。

最終的には高さ2m、総延長91mにも及ぶ睡蓮の壁画が制作され、モネが亡くなってからオランジュリー美術館に展示された。

参考文献

  • 『もっと知りたいモネ 生涯と作品 改訂版』高橋明也監修、安井裕雄著(2022)東京美術
  • 『西洋絵画の楽しみ方完全ガイド』雪山行二監修(2011)池田書店
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