エドゥアール・マネ(Edouard Manet)
【国】フランス
【生】1832年
【没】1883年(51歳)
【分類】写実主義・印象主義(写実主義と印象主義の中間くらい)
作品の特徴
近代性(モデルニテ)
《草上の昼食》《オランピア》といった作品でサロンにセンセーションを巻き起こしたことで有名なマネ。
マネの革新的な点は、「現実の生活を描く姿勢」であった。
たとえば《オランピア》では、裸体の娼婦を、娼婦として見たままに描いている。
それまで西洋絵画の裸婦像は、ただの「裸婦」ではなく、ヴィーナスなど神話の世界の「女神」として描かれるのが常だった。
しかしマネはそのタブーを破り、ベッドに横たわり、客からの花束を受け取ろうとする同時代の娼婦の姿をそのまま描き出した。
その姿勢はマネ以前の写実主義(理想化された美ではなく農民・労働など現実生活を描く)に通じるだけでなく、近代的な主題(※)を取り上げたことが新しい試みであった。
これがマネの特徴といえる「近代性(モデルニテ)」である。
ぺったりした2次元的画面
サロンで《オランピア》が非難を浴びた原因は、主題だけでなく、マネの技法の特徴にもあった。
その特徴とは、「はっきりした輪郭」「平塗りに近い筆遣い」である。
伝統的な西洋絵画では、いかに3次元を画面の上に忠実に再現するか、という点が重視され、そのために奥行きを出すための「線遠近法」や、立体的に見せるための「明暗法」などの技法が用いられた。
加えて、画家の筆跡を残さない、つるっとした「リアルな」画面が理想的な絵とされた。
しかしマネはそういった技法を放棄したことで、《オランピア》は奥行きの少ない、画家のタッチの残る平面的な作品となっている。
「ひらべったくて肉付けがされていない。……まるで風呂からあがったトランプのスペードの女王みたいだ」
クールベ(1865年サロン公開時の批評)
クールベの評のように、マネのぺったりした2次元的画面に、当時の多くの批評家は拒否反応を示した。
しかし伝統にとらわれない、マネの革新的な絵は若い画家たちを惹きつけ、のちの印象派に影響を与えたため、マネは「印象派の父」と呼ばれている。
だけどマネは印象派展への出品を断り続け、サロンで認められることにこだわっていたから、正確には印象派ではないよ!
黒色の効果
黒を最も重要な色として使い続けたことも、印象派と異なる点である。
印象派は黒色を塗ることを避けたが、マネは黒色を好み、多くの作品に黒を効果的に使った。
人生のポイント
ブルジョワ家庭に生まれた生粋のパリっ子
1832年1月23日
父オーギュスト・マネ、母ウジェニー=デジレ・フルニエの長男として生まれたマネ。
父オーギュストは法務省の高官、母ウジェニーはストックホルム駐在の外交官フルニエ家の娘という、ブルジョワ家庭(※)に育った。
家はセーヌ川をはさんで対岸にルーヴル美術館を望む場所であり、マネはまさに生粋のパリっ子だった。
ダンディで優雅な立ち振る舞い、快活で社交的な性格から、マネはつねに人の輪の中心にいた。
サロンでのスキャンダル・メーカー
1863年(マネ31歳)のサロンは、5000点の応募に対し3000点を落選させるという厳しいものであったため、審査方法に対して画家たちの不満が蔓延した。
そのため、ナポレオン3世は落選した画家たちの作品を集めた展覧会「落選者展」を開くことを決めた。
マネは《草上の昼食》を出品し、斬新な手法で一躍注目を浴びる。
積極的に援護する声もあったが、多くは中傷と非難であり、スキャンダル・メーカーとしてのマネ像はたちまち世間に浸透した。
非難を浴びたのは、本作の「着衣の二人の青年と裸体の娘」という奇妙な組み合わせ。裸婦=女神であるべきだけど、とうてい女神に見えない造形だったからだよ!
その2年後、1865年のサロンでは《オランピア》が入選するものの、前作《草上の昼食》以上の物議をかもす。
《草上の昼食》は裸体の女性と衣服を着けた男たちの奇妙な共存という謎めいた部分があったが、《オランピア》ではストレートに都会の裏に生きる現実の高級娼婦を取り上げたからである。
息子?恋人?謎めいた関係
息子…とされている
1849年、マネ17歳のとき
弟たちのピアノの家庭教師で2歳年上のシュザンヌ・レーンホフと恋仲になる。
1852年、マネ20歳のとき
シュザンヌが男の子を出産。
父親はマネと思われるが認知はされず、戸籍上はシュザンヌの弟レオン・コエラ=レーンホフとして育てられることになった。
シュザンヌとは長く内縁関係が続き、マネの父が亡くなって1年を経た1863年(マネ31歳のとき)に、正式に入籍した。
恋人…でないと思いたい
1868年、マネ36歳のとき
画家仲間のアンリ・ファンタン=ラトゥールからベルト・モリゾを紹介される。
ベルト・モリゾは上流ブルジョワ出身の「お嬢様」であり、マネのお気に入りのモデルとなったが、のちに画家を志し、印象派展にも参加した。
不倫関係ではないかという噂もささやかれた2人だが、モリゾ自身が画家であり、絵画の新境地を開拓するマネに心酔していたことは事実のようだ。
1874年、モリゾはマネの弟ウジェーヌと結婚し、マネとは義理の兄妹関係となる。
参考文献
- 『もっと知りたいマネ 生涯と作品』高橋明也(2010)東京美術
- 『西洋絵画の楽しみ方完全ガイド』雪山行二監修(2011)池田書店
- 『ワイド版 101人の画家 生きてることが101倍楽しくなる』早坂優子(2011)視覚デザイン研究所
- 『鑑賞のための西洋美術史入門』早坂優子(2007)視覚デザイン研究所
- 『巨匠に教わる絵画の見かた』早坂優子(2012)視覚デザイン研究所