【ざっくりわかる】ルノワールの人生・作品の特徴

【ざっくりわかる】ルノワールの人生・作品の特徴画家解説
Auguste Renoir《Madame Henriot》c. 1876 National Gallery of Art, Washington

ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)

【国】フランス
【生】1841年
【没】1919年(78歳)

【分類】印象主義

作品の特徴

裸婦や少女の絵

風景画を得意とした印象派画家の中で、ルノワールはドガと並んで多くの人物画を描いている。

特に、女性や少女を描いた作品が多い。

晩年には、豊満な肉体と輝く色彩の裸婦像を盛んに制作するようになる。

印象主義から古典主義へ

ルノワールは、モネらとともに第1回印象派展から参加してきた印象派の画家である。

しかし1879年38歳のとき、第4回印象派展には参加せず、サロン(官展)に応募する。

サロンでは、ルノワールの強力な支援者になったシャルパンティエ夫妻の家族を描いた《シャルパンティエ夫人とその子供たち》が入選し、その頃から、肖像画の注文が増えてきた。

ルノワールは上流市民階級の肖像画を描くことによって、名声と経済的安定を得ようとした。

しかし印象派のタッチは、かたちをしっかり再現することを目的としていない。

モデルをきちんと描写するため、ルノワールは印象派的描法を捨て、古典的なデッサン重視の描き方を追求し、厳しい輪郭線による人物表現を試みた。

その成果のひとつとして《女性大水浴図》がある。

しかし、この作品はいままでの顧客や愛好家たちからは不評だった。

画家の迷いが表れた絵

《雨傘》ピエール=オーギュスト・ルノワール 1881-1886年頃 ロンドン・ナショナルギャラリー

《雨傘》は印象主義への行き詰まりを感じ、画風を模索していた時期に描かれた作品である。

印象主義と古典主義、二つの画風が混在している。

右側の二人の少女と二人の女性は印象派風の軽快な筆触だが、左側の女性と男性は明確な輪郭線で描かれている。

右側の部分は1881年に、左側の部分は1885年に、それぞれ制作された。

人物が身に着けている衣装もそれぞれの時期に流行していたものである。

南仏の穏やかな色彩

古典主義の線の時代を経て、1888年から、またタッチ本位の描き方に戻ったが、テーマは印象派時代のような都会生活の一コマではなく、自然や母性愛など古典的なものだった。

1899年にリューマチが再発したとき、医師はルノワールに南フランスへ行くことを勧めた。

そのため、ルノワールの晩年は南フランスのカーニュが主要舞台になった。

カーニュの丘の中腹にあるレ・コレットと呼ばれる広大な地所を買うのは1907年、66歳のときである。

晩年のルノワールは病と闘いながら、風景の中の裸婦というテーマに精力的に取り組んだ。

この頃の作品は南仏の影響か、穏やかな色彩にあふれている。

ルノワールが日本画家に与えた影響

1909年には梅原龍三郎がレ・コレットのルノワールに会いに来ている。

その年に梅原は、山下新太郎や有島生馬を連れて再度レ・コレットを訪れた。

彼らはルノワールから作品を譲り受け、日本に持ち込んだ。

ルノワールに会ったことがなくても、日本にもたらされた作品や雑誌『白樺』などの出版物を通してその名と画風を知り、影響を受けた画家たちもいた。

それは岸田劉生、中村彝、赤松麟作、さらに日本画の土田麦僊などにまでおよぶ。

人生のポイント

モネとともに制作

1869年、28歳のとき

モネと共にセーヌ河畔ラ・グルヌイエールで制作する。

この競作をもって印象派誕生の時とみなす歴史家も多い。

(印象派という名称は1874年の展覧会がきっかけだが、技法の面においてはこのときがきっかけではないかということ)

歴史画や聖書・神話ではなく同時代のパリの情景を描くのはテーマとして新しかったが、ルノワールとモネがラ・グルヌイエールで制作した一連の作品は、内容だけでなく技法の点でも新しかった。

自然を観察して得られた印象を画面にそのまま定着するためには、パレットの上で絵の具を混ぜずに、原色や原色に近い色をそのままカンヴァスに併置したほうが、有効であることに気づいたのである。

一連の作品にはそうした技法の萌芽が認められる。

「ラ・グルヌイエール」

「蛙のすみか」という意味(蛙はラ・グルヌイユ)。
セーヌ川沿いにはそう呼ばれる場所がいくつかあった。川辺の市民の行楽地。

セザンヌとの友情

1882年、41歳のとき

ルノワールはレスタック(南仏マルセイユの西にある小さな漁村)のセザンヌを訪ねた。

セザンヌはレスタックに家を借りており、そこに息子のポールと妻オルタンス・フィケと暮らしていた。

滞在中、ルノワールは重い風邪にかかり肺炎を起こしてしまう。

ショケ(ルノワール作品のコレクター)宛の手紙には、セザンヌが親切にしてくれたことが記されている。

1885年、44歳のとき

セーヌ川沿いのラ・ロッシュ=ギュイヨンに住んでいたルノワールのもとに、狂乱状態のセザンヌが妻子をつれてやってくる。

セザンヌはエクスの実家のメイドに心を乱されていたのだ(恋愛関係になったことが実家で大問題となった)。

ルノワールと妻アリーヌはセザンヌを温かく迎え入れた。

妻アリーヌと3人の息子

1879年、38歳のとき

のちに妻となる20歳のアリーヌ・シャリゴと出会う。

出会った場所は、当時ルノワールが住んでいたサン=ジョルジュ通りにあった大衆食堂。

彼女はフランス中部オーヴ県エッソワ出身の勤勉なお針子だった。

二人はすぐに一緒に生活を始めるが、ルノワールはそのことを友人たちには隠していた。

正式に結婚したのは1890年、49歳になってからである。

ルノワールはアリーヌ・シャリゴとのあいだに3人の息子をもうけた。

  • 1885年、44歳のとき 長男ピエール誕生→のちに俳優に
  • 1894年、53歳のとき 次男ジャン誕生→のちに映画監督に
  • 1901年、60歳のとき 三男クロード誕生→のちにプロデューサーに

ジャンは『わが父ルノワール』を著す。

この本によって、「悩みや不安のない幸せな感情に満ちた絵画世界」というルノワールのイメージはさらに広められた。

参考文献

  • 『もっと知りたいルノワール 生涯と作品』島田紀夫(2009)東京美術
  • 『鑑賞のための西洋美術史入門』早坂優子(2007)視覚デザイン研究所
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